2008年03月05日
若狭の街歩き
若狭公民館主催の若狭の街歩きに参加した。「目からウロコの琉球史」で有名な法政大学の上里先生の解説つきで、若狭の町並みを歩くツアー。10-30代の方優先で募集、と書いてあったけど、行ってみたら大半は年配の方。こういうのはやはり、お年を召した方が好きなんだなー。。。
さて、上里先生の話によると、琉球王朝時代の国際交易都市=那覇には、中国からの渡来人が住み着いて久米村を作ったように、銀の交易で東南アジアをまたにかけた近畿出身の人が集まっていた。それが若狭の街となったらしい。隣の久米村における中国文化の影響で孔子廟、日本の影響で寺社があったりと、様々な渡来文化が混在し、その跡が今でも残っているようだ。
例えば、熊野権現を祀る波の上宮に至る久米大通りは、日本の感覚で言う「表参道」でもあり、中国の感覚で言えば、波の上宮を尻尾とする竜の胴体にあたるようだ。また、波の上宮同様、中国で航海の女神と崇められた天妃を祀る天妃宮は、今でも天妃小学校にその祠を残している。もっとも、たまたまご一緒した、天妃小の先生はそんな祠があることさえ知らなかったらしいが。。。
ちなみに、沖縄に熊野神社系列の神社が多いのは、南の海のかなたに極楽浄土があるという熊野神社の思想が、沖縄のニライカナイ思想に通じるものがあるからとのこと。
知られざる秘話は他にも。たとえば、松山公園の一角には、浄土宗を普及させようとした袋中上人の碑がある。臨済宗と真言宗が勢力を誇る沖縄では、浄土宗は普及しなかったものの、彼が唱えた念仏は念仏踊りのもととなり、今のエイサーの元祖となっているそうな。
今の若狭は、喧騒と猥雑なの繁華街に隣接する住宅地であり、昔の面影を残すものは少ないが、意外にも歴史豊かな街らしい。こういう点から自分たちの住んでいる町を見直すのもオモシロイ。
さて、上里先生の話によると、琉球王朝時代の国際交易都市=那覇には、中国からの渡来人が住み着いて久米村を作ったように、銀の交易で東南アジアをまたにかけた近畿出身の人が集まっていた。それが若狭の街となったらしい。隣の久米村における中国文化の影響で孔子廟、日本の影響で寺社があったりと、様々な渡来文化が混在し、その跡が今でも残っているようだ。
例えば、熊野権現を祀る波の上宮に至る久米大通りは、日本の感覚で言う「表参道」でもあり、中国の感覚で言えば、波の上宮を尻尾とする竜の胴体にあたるようだ。また、波の上宮同様、中国で航海の女神と崇められた天妃を祀る天妃宮は、今でも天妃小学校にその祠を残している。もっとも、たまたまご一緒した、天妃小の先生はそんな祠があることさえ知らなかったらしいが。。。
ちなみに、沖縄に熊野神社系列の神社が多いのは、南の海のかなたに極楽浄土があるという熊野神社の思想が、沖縄のニライカナイ思想に通じるものがあるからとのこと。
知られざる秘話は他にも。たとえば、松山公園の一角には、浄土宗を普及させようとした袋中上人の碑がある。臨済宗と真言宗が勢力を誇る沖縄では、浄土宗は普及しなかったものの、彼が唱えた念仏は念仏踊りのもととなり、今のエイサーの元祖となっているそうな。
今の若狭は、喧騒と猥雑なの繁華街に隣接する住宅地であり、昔の面影を残すものは少ないが、意外にも歴史豊かな街らしい。こういう点から自分たちの住んでいる町を見直すのもオモシロイ。
Posted by MiO at 23:49│Comments(0)
│沖縄旅日記